2018年5月31日木曜日

kemu/堀江晶太の誕生日と、拝啓ドッペルゲンガーの1周年の日。

私がkemuというボカロPに出会ったのは、かれこれ6年前。2012年の夏。
とあるヨドバシカメラにふらっと立ち寄ったとき、CDコーナーを見たら、ボカロ曲のコンピレーションアルバムの”Vocaloconnection”のクロスフェードが流れていた。
そこで、今までの自分のボカロに対するイメージはぶち壊された。


「こんなにかっこいい曲があるのか!!」
「GUMIってなんや!?IAってなんや!?」
「PVかっこよすぎない????」


それまで、メルト・ODD&ENDS・消失に代表されるようなボーカロイドのキャラクター性を歌う曲が主流のイメージを持っていて、語弊があるれど、ボカロを「アイドルオタク臭いコンテンツ」として受け止めていた私にとって、キャラクター性に縛れない純粋なかっこよさが衝撃的で、そこからボカロにドハマリした。そのキッカケになった曲が、セツナトリップ・恋愛勇者・そして、六兆年と一夜物語。

その後色々なボカロを聴いて、ボカロPという概念を理解した頃、好きな曲にやたらと”kemu”というP名が多いことに気付いた。
それから近いタイミングで、PANDORA VOXX completeの発売があって、初めてボカロのCDを買って。それから2ヶ月で敗北の少年がアップされ、事実上の引退になって。
kemuさんに熱を持って早いうちに事実上の引退になったから、リアルタイムで追えてた時期は少なかったけど、全曲ミリオンとか、伝説とも言われる程の評価の高さから、本当にすごい人だったんだと再認識して。
それからも色々なボカロを聴いて、いつしか最新ボカロから離れて行っても、ずっと一番好きなボカロPでした。


復活なんて無いと思ってた。過去の伝説だと思って生きていた。


だからこそ、1年前の電撃的な復活は衝撃だった。
とっても興奮したし、沢山の想いがあふれて、ツイッターでとっても騒いでいた。

再始動を予感させるイントロ、kemuらしい激しいサウンド、そしてまた幕は上がるという歌詞、複数の1枚絵による高クオリティの PV、艱難辛苦・誰は君・救済者→侵略者という抜群のセンス、ゾクゾクさせる台詞部分、二番終わりからの更に盛り上がらせるCメロ、ルンパッパ、「どうもこんにちは君の分身です」という歌いだしを最後に持ってくることで奇跡の輪廻を表現し物語のループ性すら感じさせる。

挙げるとキリがないくらい全てが最高で、あの頃の、ボカロが大好きだった頃のボカロそのもので、当時の感情を思い出して、懐かしい。それでいて新しさもある。4年の進化を感じたし、今までのどの曲よりも凄いと感じた。

それからずっと、kemuさんのこと、KEMU VOXXのことを考えていた気がする。当時買えなかった物を集め始めた。曲も、激しいものばっかり好んだ当時から少し変わって、曲で感動することを好くようになったから、また違った景色が見えた。
これを気に最近のボカロも知る機会があったけれど、1度ボカロから離れてしまっていたから、興味が湧かなかった。聴かなくてもいいって思う自分がいた。それでもドッペルは聴くのだから、如何に自分の中でkemuというボカロPの存在が大きいかってことがよく分かった。敗北の少年から4年の時を経て、もっと大好きになるなんて想像もしていなかった。

拝啓ドッペルゲンガーは2017年を象徴する曲だとも言われているけど、自分にとってはもっと深い意味のある曲になっている。kemu復活の曲で、今一番大好きなボカロ曲で、堀江晶太・PENGUIN RESEARCHと出会うキッカケの曲。

私は暴言とか貶むのとか苦手なので掲示板サイト全般見ないから、kemu堀江晶太説すら知らなかった。kemu=堀江晶太を公言しても「誰?」ってなっていて、最初は興味が無かった。あくまで私が好きなのはkemuだからって、深く追わなかった。

それが変わったのは12月。ニコニコ超パーティーでPENGUIN RESEARCHが「地球最後の告白を」を歌ったと聴いて、気にならざるを得なかった。
そこからペンリサの曲を聴き始めた。kemuとは全く違う、悔しさ・敗北から這い上がれ、前に進めと鼓舞されるような歌詞。kemuを感じられる、激しいサウンド・音の使い方。
特に歌詞の部分は大きくて、千載一遇とか敗者とか方位磁針とか、頑張ろうって思えるから、どんどんハマっていって、ライブにも行ったし、ゴーヤオンも行く。
最近では堀江晶太名義の提供曲も聴くようになって、特にCradleという曲はkemuらしさが全開でドハマリしている。

堀江晶太についての情報をまとめてくれているサイト様も本当に有り難くて、知りえなかった色々な情報を手に入れることができた。
その中で堀江晶太の背景にあるものを知って、ペンリサ曲の説得力が増して、歌詞に込められた想いも強く感じて、kemu曲の本質も見えるようになった。

kemuさんのことを神だ、神だと。マジもんの天才だとずっと思っていた。だけど当の本人は才能は無い、何もうまく出来なくて悔しかったと言っていた。劣等感をずっと感じてきていて、大きな過ちも犯している。そこから這い上がってきたから今の堀江晶太があって、悔しさを糧に血の滲む努力をしてきたからあれだけのクオリティと人を魅了する力がある。kemu曲の凄さも、根底にこれらの要素があったからなんだと思うと、また違った感情が湧いてくる。

kemu曲の解釈って色々あると思っているけど、自分もこう思うってのがあって。昔は、1つ1つが独立したおとぎ話だけど、世界感は繋がっていると思っていた。今もそこは大きくは変わっていないけど、堀江晶太を知ってからは、kemu曲全体を1つの物語だとして「誰もが一度は欲しがる超能力を手にしたら、最後は不幸が訪れる。奇跡なんてなくていい、普通に生きることが幸せだ。だから神から手を差し伸べられても、断る。人間らしく泥を這いつくばって生きていく。それでも人の業の連鎖は新たな始まりを産んで・・・」みたいなメッセージを紡いでいるのだと解釈している。kemuの曲はおとぎ話だけど、本質は人間臭さにあると思っている。

ペンリサ曲もそうだし、提供楽曲だと田所あずささんのストーリーテラーとか、堀江先生の書く歌詞には人間臭さや、泥臭さがある。それは描き方次第ではネガティブな内容になる要素だけど、鬱を感じさせない激しさや未来へのメッセージがある。そこが堀江晶太にしか紡げない軸みたいなもので、一番の魅力かな。

この1年、kemu/堀江晶太についてほんとにたくさんの時間を使った。今思えばあの時から世界が違って見えるようになったと思うくらいだ。あっという間の1年で、拝啓ドッペルゲンガーが投稿されたのが昨日のことのように思えるし、その後2・3週間の興奮の冷めなかった時期がついさっきのような気すらする。1周年を迎えるのが怖いとも思う。拝啓ドッペルゲンガーがどんどん過去になっていってしまうことへの恐怖がある。

時が経つというのは残酷で、大好きだった作品が年月を経て”大好き”から”大好きだった”になることが多い。現在進行形でなければ、徐々に触れる機会も情熱も減るものだ。
kemuさんの曲にもそういう事象は起きていたけど、拝啓ドッペルゲンガーが生まれてからは、当時よりも熱い想いを持っている。その熱量が今日まで1年続いたから、もう永遠になったと信じている。だからkemuもペンリサも堀江晶太も、これからもずっと大好きであり続けると思う。



kemu復活から1年の日に、ずっと心に抱いていた想いを綴れて良かった。グダグダした長文の自分語りで、読むに耐えないと思った人もいると思うけど、少しでも共感してくれる部分があると嬉しいです。

改めて、堀江晶太さん、kemuさん、お誕生日おめでとうございます。これからもたくさんの曲を作って、僕たちを魅力してください。




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堀江晶太の紡ぐ世界の虜になった僕は、死ぬまで好きであり続けるんだろうな。